- インテルの半導体 ▼
- アルティア ▼
- マイクロソフト ▼
- アップル ▼
- 西和彦(アスキー) ▼
- 椎名尭慶(ソード) ▼
- 嶋正利(ビジコン) ▼
- セイコー ▼
- NEC「PC8001」 ▼
- PC9801 ▼
- IBM ▼
インテルの半導体
パーソナルAIの発端は、1971年に開発された1枚の半導体チップ(マイクロプロセッサー/超小型集積回路)「4004」から始まる。
日本の有力電卓メーカー・ビジコン社の嶋正利がシリコンバレーのインテル社と共同開発したものだった。翌1972年には「8008」、1974年には「8080」が発売された。
8080をCPU(中央演算処理装置)に使い、入出力用のスイッチやメモリーをつけた現在のパソコンの前身ともいうべきマイコン・トレーニングキットが現れた。
世界発の個人用コンピューター「アルティア」誕生
この「8080」を使って世界初のマイクロコンピューター「アルティア」が誕生した。
「アルティア」を作ったのはミッツ(MITS)という会社だった。米ニューメキシコ州の片田舎、アルバカーキの小さな店でこれを組み立てた。雑誌の広告を見たマニアに、通信販売で製品を送った。
マイクロソフト
そしてアルティアを動かすソフトウエア(簡易言語)「BASIC」を発明したのが、ゲイツとその盟友ポール・アレンだった。
1975年4月、当時19歳のビル・ゲイツは高校の同級生でパソコン仲間のポール・アレンと2人で、このミッツ社の「アルティア」用にBASICをライセンスするための会社としてマイクロソフトを設立した。
アップル(Apple)がハード
ミッツ社以降、ハードメーカーとして1970年代から業界をリードしたのは、22歳のスティーブ・ジョブスがマイコン仲間のステファン・ウォズニアックだった。
1976年、2人はアップルを創業し、「Apple1」を発売する。ジョブズ家のガレージで製作したApple1は150台以上が売れ、「Apple2」の開発へとつながる。
この頃の製品にはすでに、ジョブズのこだわりが満載されていた。たとえば、ステレオ機器にヒントを得てプラスチックを筐体に採用、内部の配線の見え方にまで配慮が行き届いていた。
Apple2は発売後すぐに300台が売れ(その後通算で200万台以上が売れた)、アップルは急成長のとば口に立った。1980年に株式公開し、ジョブズは24歳にして大金持ちになった。
1990年代後半からは、iPodや音楽配信などで大成功した。
参照:アップルiPod
日本の天才・西和彦(アスキー)
アップルコンピュータの2人の若者はアップル1のヒットに気をよくして、サンフランシスコで開催された西海岸コンピューターフェア(WCCF)に改良機の「アップル2」を展示する。1977年のことだ。
その入場者の中に日本でアスキーを設立したばかりの西和彦がいた。西も21歳の若者であった。日米の国境を超えて天才的な若者は、この1970年代半ばに新しいコンピューターの姿を確信していた。
1983年6月、マイクロソフト副社長に就任していた西和彦は、パソコンメーカーの富士通、NEC、日立など14社の代表を従えて、「家庭用マイコン仕様の規格統一のMSX」を提案した。
要するに、各メーカーのバラバラな8ビットパソコン機をハードからソフトまですべて互換性のきく、共通のオペレーションシステムにしようという提案だった。
アスキーは1993年、「ログアウト冒険文庫」を創刊し、文庫市場に参入した。コンピューターゲームを小説化したエンターテインメント作品をそろえ、中・高校生をターゲットにした。当時、文庫の創刊が相次いでいた。後にニコニコ動画を開発するドワンゴの親会社となる角川書店「ホラー文庫」や、小学館「キャンバス文庫」、河出書房「夢文庫」などが登場した。
参照:AI Referee
椎名尭慶が創業した「ソード」
初期のパソコン市場での日本勢の活躍は実に素晴らしいものだった。その代表的な存在が、椎名尭慶(しいな たかよし)氏が創業したベンチャー企業「ソード」だった。日本のパソコンメーカーの原型となった。
「将来性の高い企業の増資」と評判
ソードは1970年、椎名氏がコンピューター販売会社を辞めて、母親と2人で設立した。素人でも簡単に覚えられるビジネス用のパソコンソフトの「ピップス(PIPS)」を開発した。自社製のパソコンに搭載して売り出してから急成長した。売り上げは、毎年倍々ゲームで増えた。
また、非上場ながら1982年に1株7万円(額面500円)、1983年に1株5万円の第三者割当増資を実施した。ベンチャーブームの中で、「将来性の高い企業の増資」と評判になった。金融機関や証券会社の子会社である金融会社(ベンチャーキャピタル)が数多く応募して話題になった。
専業最大手、ベンチャーの旗手
1980年代半ばまで、ソードは日本国内でパーソナルコンピューターの専業最大手だった。日本の「ベンチャー企業(研究開発型企業)の旗手」との評価を集めた。本社・千葉市、資本金約26億円、従業員700人だった。
しかし大手コンピューターメーカーがパソコン市場に本格参入するなどの競争激化によって、ひところは20%近くを占めていたパソコン市場での市場占有率も低下した。1985年には4%程度に落ちた。
東芝が買収
1985年、ソードは東芝に買収され、子会社になった。株式の取得額は30億円弱だった。平均1株1000円程度での譲渡だった。
ソードは1983年に1株4万円(額面500円)の第三者割り当て増資を実施したが、わずか2年で株の価値が40分の1に落ちたことになった。
NECの市場シェアの半分を握る
当時の日本国内のパソコンのシェアは、NECが約50%で断然トップ。2位を競っている富士通とシャープを加えると、上位3社で70%超だった。
東芝プラットフォームソリューションに
1987年、創業者・椎名尭慶氏は社長を退任し、相談役に退いた。後任社長には、東芝の小林孝之・前情報システム事業本部事業部付(当時49歳)が就任した。後に、東芝プラットフォームソリューションという社名になった。
参照:https://www.toshiba-ictfair.com/
ビジコンの嶋正利
また、上述の通り、インテルの4004自体も、日本の電卓メーカーであるビジコン社の嶋正利とインテルのテッド・ホフとの共同開発製品だった。
セイコー
インテルの4004の上位版の8008も、精工舎(服部セイコー、現:セイコーグループ)との共同開発製品だった。
パソコン自体もアップルのアップルIIと期を同じくして1977年に精工舎が「SEIKO5700」を発売した。
国産トップのNEC「PC8001」
その後もソードの「M200」や日立製作所の「ベーシックマスター」など国産パソコンが続々と発売された。しかし、日本のパソコン時代をリードしたのはNECが1979年に発売した「PC8001」といってよいだろう。
CPUはザイログの8ビットZ80
「PC8001」は、米ザイログの8ビットのZ80をCPUとした。マイクロソフトのBASICを搭載した。家庭用テレビと音響テープをつなげば歴然としたコンピューターが目の前に現れた。
これは当時のコンピューターユーザーから見れば「オモチャ」だったかもしれない。しかしその後、日本のコンピューター市場を切り開く名機となった。
生みの親は、大内淳義と渡辺和也
PC8001の生みの親は2人いた。当時常務で半導体と家電を担当していた大内淳義とマイコン販売部長だった渡辺和也(現ノベル社長)だった。
最初は、できたばかりのマイクロプロセッサーを販売するためにパソコンを作った。
16ビットのPC9801
1980年代に入ってNECは16ビットのPC9801を発表、日本のパソコン市場を席けんしていった。
IBMがついに参入
1970年代のこの動きを見ていた巨人IBMは、1981年になってようやくその重い腰を上げた。
発表した「IBM-PC」は同社にとって極めてざん新なアイデアにあふれるものだった。
それまではCPUからOS、ソフトまですべてを自社技術で提供するのが常だったIBMは、このパソコンでは路線を180度転換した。
CPUにはインテルの16ビットの8088を搭載した。OSにマイクロソフトのMS-DOSを採用した。そしてワープロや表計算ソフトも外部のソフトハウスの製品をそのまま使った。
さらにデータ伝送路であるバス仕様などを公開、他メーカーも互換機を作れるようなオープン戦略をとった。
そのIBM-PCは売れた。発売2年後の1983年には、それまでパソコン市場トップの座にあったアップル2を抜き、全米パソコンシェアの40%を握るまでになった。
ソフト会社が業界を支配
しかしIBM-PCの快進撃の中で、パソコンのプラットホーム(共通基盤)を見る目に微妙なズレが生じてくる。
互換機メーカーが増えてくると、ソフトハウスや周辺機器メーカーはハードウエアではなくOSこそが真のプラットホームだということに気づいてくる。
OSの仕様に合わせて製品を開発すれば、それはそのOSに対応するどのハードでも稼働することになる。
これによってOSメーカーであるマイクロソフトの地位がハードメーカー、IBMを上回るようになってしまった。
OSで対立両雄並び立たずの言葉通りIBMとマイクロソフトは1990年、次のOS戦略をめぐって決別した。
IBMはOS/2、マイクロソフトはウインドウズと別の道を歩むことになった。
日本の金融・投資業界でも激戦
IBMとマイクロソフトは、日本の金融・投資業界向け市場でも激戦を展開した。
日本アイ・ビー・エム(日本IBM)は、32ビットパソコン用OSである「OS/2」で1994年に約20万3000本の販売を記録した。1993年度に比べOEM提携先が17社増加し22社に、対応アプリケーション(32ビット製品)はほぼ倍増の250種を数えるなど、ビジネス環境の拡充を推進したことなどが奏功し、目標の20万本をクリアした。内訳は個人向けが半分程度を占め、企業向けが3割程度、業種別では半分程度が金融分野向けで流通分野、公共分野と続く構成だ。
世界では累計出荷本数は800万本を超えた。
マイクロソフト社の「ウィンドウズ95」日本語版の出荷時期がずれ込む中で、着実な実績積み上げでリード幅を広げたかたちとなった。
参照:プレナス投資顧問
日本企業は衰退
一方、こうした米国勢同士の派手な勢力争いの陰に隠れて日本のパソコン業界は初期の勢いを失った。ひとりPC98だけが国内の限られた市場でシェアを守るだけになってしまった。